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ブラック・ウォール・ストリートとタルサ暴動 そしてネイティブ・アメリカン

ByRem York Maash Haas

4月 11, 2012
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http://en.wikipedia.org/wiki/Greenwood,_Tulsa,_Oklahoma

かつて「黒人のウォール街」と呼ばれた街は、アメリカ史上最悪の暴動によって破壊された。

 

上の写真は米ウィキペディアに掲載されている、日付のない写真。暴動前のグリーンウッド、通称「ブラック・ウォール・ストリート」だ。
20世紀初頭、オクラホマ州タルサに生まれたグリーンウッドは、当時、最も成功した、アフリカ系アメリカ人の裕福な街だった。

 

1907年ごろ、南部での人種差別は依然として厳しかった。
しかし、オクラホマ州は州になったばかりで、他州からのアフリカ系住民に対して、彼らが人生をやり直す場所を提供した。
そのため、南部のさまざまな地域から、アフリカ系アメリカ人はオクラホマ州に移住してきた。
それぞれが州内で白人社会と離れて暮らしたが、当時タルサには多くの白人系住民がいた。
アフリカ系アメリカ人の住民は、タルサを東西に走る鉄道の北側に住みはじめた。
白人たちはそのエリアを、「リトル・アフリカ」という名前や、他の差別的表現で呼んだという。

 

黒人系コミュニティは後にこのエリアを購入し、約1万人が住む街となった。これがグリーンウッドとなる。

街は南北に走るグリーンウッド・アヴェニューを中心としていた。

 

当時の街は赤煉瓦の建物が並び、食料品店や衣料品店、理髪店などがあり、どれも黒人系住民で経営されていて、住民はそれを誇りに思っていた。白人とのシェアが一切ない、この繁栄した商店街は、1910年の石油による好景気でさらに活発となり、やがて「黒人のウォール街 ブラック・ウォール・ストリート」と呼ばれるようになった。

 

やがて、黒人系の医師、弁護士など、優れた人材も登場する。

 

しかし、1921年ごろ、クー・クラックス・クランは、タルサに約3200人のメンバーを擁していた。

白人系住民の黒人系住民に対する差別感情、嫉妬心は爆発寸前だった。

 

タルサ暴動、発生

暴動が発生したのは、1921年の5月31日と言われている。

アフリカ系アメリカ人で、19歳のディック・ローランドが、エレベーター操縦士の17歳白人サラ・ページに暴行を加えて逮捕されたのがきっかけだった。タルサ・トリビューンはこの事件を5月31日に報道。すると、武器を持った白人たちが、刑務所の外に集まった。

一方、黒人たちも、白人たちからディックを守るために刑務所の外に集まった。

混乱の中、ある白人男性が黒人男性から銃を取ろうとした。その弾みで、空に向けて一発、銃弾が放たれた。

 

それをきっかけに白人集団は暴徒化。黒人が大成功をおさめているエリア、グリーンウッドになだれこんだ。

彼らは商業ビルや店舗、家を破壊し、男性、女性、子どもを殺害した。

 

 

 

暴動がおさまったのは、6月1日の午後だった。

 

破壊されたのは、21の教会、21のレストラン、二つの映画館、30の食料品店、病院、銀行、郵便局、図書館、学校、法律事務所、バスシステム、民間飛行機。黒人所有の飛行機は盗まれ、空から爆発物を投下するのに使われたとも言われている。

 

その光景は無残だった。

 

多くの白人系の男性、女性、子どもたちは、街の境界線から、暴動の様子をずっと眺めていた。

中にいる黒人が撃たれ、焼かれ、リンチされるという、非現実的な光景。

 

街は、完全に破壊された。

 

 

被害総額は150万ドル。アメリカ赤十字は、300人以上が殺されたとしている。

 

 

住民は暴動後にホームレスとなったが、5年ほどかけてエリアを再構築した。

しかし、60年代に人口流出が起こり、今は更地が多く残っている。

グリーンウッドアベニューには解体された建物の煉瓦などを使い、歴史地区として残すために一部復元された。

 


大きな地図で見る

歴史地区として復元されたグリーンウッド。通称ブラック・ウォール・ストリート。

 
ネイティブ・アメリカンはかつて、黒人奴隷を抱えていた

 

記事の冒頭で、オクラホマに黒人が移住してきたと書いたが、それにはもう一つの理由があった。
オクラホマは、ネイティブ・アメリカンの奴隷の子孫が生きる土地でもあったのだ。

奴隷解放宣言前、1830年に、南東部の肥沃な地域で暮らしていたチェロキー族などのネイティブが、オクラホマ州やその周辺に強制移住(「the Trail of Tears 涙のトレイル」)させられた。彼らは綿花栽培などで黒人を奴隷として所有(チェロキー族の場合は人口の一割)していて、移住の際も同行した。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Okterritory.png

下の図、右側がインディアン・テリトリー。1907年にオクラホマ州となった。

1863年の奴隷解放では、ネイティブ・アメリカンの奴隷の多くは部族の一員となり、インディアン・テリトリーで自由に暮らせる権利を手にした。

1907年にオクラホマに集ったアフリカ系アメリカ人は、彼らの親族が多かったのだ。

 

現在は、部族の一員となった黒人系を、部族として認めないという動きがあり、部族の裁判では解放奴隷の部族資格を剥奪できるとした。しかし、連邦政府の介入で阻止されるなどしている。

部族資格を持つということは、福祉給付や特別補助を受ける権利を持つということだ。

ネイティブ・アメリカンは、部族の血を汚すわけにはいかないとし、黒人系を部族から排除するという意思を曲げることはない。

 

全米で話題となっているジェイク・イングランドの黒人住民無差別発砲事件だが、ジェイクはネイティブ・アメリカンだと一部報道されている。(記事「黒人への無差別発砲事件 犯人はアメリカン・インディアンの青年 フェイスブックで身元判明」)

事件には、ネイティブ・アメリカンとアフリカ系アメリカ人の歴史的感情も渦巻いているのかもしれない。

 

オクラホマにはネイティブと黒人が強制移住で集い、石油が発見されたときには白人たちがなだれ込んだ。

そして今、白人、ネイティブ、黒人の人種間感情は、その中心地であるタルサで混迷を極めているのだ。

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