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「群れ」は事件のはじまり。 連合赤軍リンチ事件

ByRem York Maash Haas

4月 1, 2014
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群れることは、事件のはじまりだ。

連合赤軍の群れ、オウムの群れ、北九州のある一家の群れ。

仲間内で殺し合うという事件を、人間は多く犯してきた。

その第一歩が、群れにある。

 

どうして群れるのかについては、さまざまな理由があるが、シンプルではない。

日本であれば保育園、幼稚園から群れがはじまり、小学校でさらに群れに放り込まれる。

 

 

群れでは互いの動向や評価が気になるから、常に周りに影響されて生きていく。

群れの内容で、生き方を変えていくのだ。

 

「人は一人では生きていけない」

 

といった言葉が美しく語られるから、人は一人で生きづらい。

 

 

連合赤軍は山の中で、互いを評価しあい、主張しあった。

「世の中」と「自分」を結びつける前に、メンバーたちへの評価を勝ち取る必要があった。

シンプルではない。

 

 

シンプルではない戦国時代の終わりのころ、千利休は武士たちにシンプルな人間関係を提案した。

秀吉はコミュニティ、大規模な人間関係を大事にしたが、千利休にとっては茶会よりも小さな茶室が大事だった。

 

ところで、茶道は日本の礼儀の集大成のようになったが、日本人の若者には受け入れられていない。

それは、日本人は大きな集団の中で、群れるために言葉をカジュアルにし、友人を作り、ふざけあうからだ。

しかし、やがて大人になって人間関係をミニマムにしていくと、カジュアルにする必要はなくなり、自分のための礼儀に集中できる。

そのとき、茶の世界が深淵に思えてくる。

 

残念ながら、大人になっても群れはある。会社だ。

会社の中で、人は自分と良識をシンプルに結びつけることができなくなり、その集団の利益を追求し、間違いを犯す。

出世という餌に惹かれ、群れの中の立ち位置を気にする。

それでも、今も日本の大学生は大企業に就職することを望む。アメリカのエリートは大企業に就職することを恥とさえ思っているというが、日本人はつい数年前まで、東電に入れれば喜ばれた。

 

「群れ」は、あらゆる場所にあり、あらゆる形で弊害となる。

浦和の差別横断幕も、「群れ」という観点から判断すると、なぜサポーターを作らなければならないのかということになる。

オフィシャルサポーターは3名から結成できるというが、そうやってゴール裏を群れの聖地化し、外国人の存在を阻んだという。

解決法はある。海外のように、個人個人で応援すればいいだけのことだ。

 

 

最近は「利益を上げない、追究しない」ことや、小さい個人事業で生きていくこと、ミニマリズムの暮らしに注目が集まってきた。

群れないこと、自分で判断することの清々しさは先進国特有の未来であり、「個人主義」として西洋では大事にされてきた。

「個人主義」で生きていくことの弊害もあるかもしれないが(スーパーに落ちたリンゴを拾わない)、「個人主義」からの後戻りはない。

特にヨーロッパでは、ナチスという巨大な群れと、社会主義という群れに嫌気がさし、「オウム」のような事件は「遅れ」にしか見えない。

群れの中で判断力を亡くした人間は、哀れでしかないのだ。

 

しかし、この連合赤軍の事件を契機に、政治的な面では日本人は群れなくなった。

個人で考え、個人で静かに思うようになった。

だから、韓国がいろいろなことで大きな声をあげるとき、中国が群れて暴れるとき、気味が悪い。

 

日本人の個人主義はひろがっていくのか。

もし、未来の生き方に個人主義を選択できたとき、少しずつ減少しつつあるリンチ事件に未来はない。

日本で繰り広げられたリンチの歴史は、この未来によって静かに消滅してもらおう。

 

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