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「スターリンの息子は脱走兵だった」 ドイツの雑誌が発表

ByRem York Maash Haas

2月 18, 2013
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http://www.dailymail.co.uk/news/article-2280247/Stalins-son-war-deserter-German-magazine-claims-dictators-child-surrendered-Nazi-forces.html
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2280247/Stalins-son-war-deserter-German-magazine-claims-dictators-child-surrendered-Nazi-forces.html

 

あのスターリンの長男は、脱走兵だったようだ。

息子の名前はヤコフ(ヤーシャ)。彼は1941年、仲間とともに、民間人の服を着て軍を脱走したという。

 

なぜそもそも、独裁者の息子が兵隊だったかというと、1928年にスターリンは息子ヤコフを「悪党」として勘当していたからだ。

 

 

親から離れて生きていたヤコフが軍に志願したのは1937年。1940年に中尉になり、1941年6月ヒトラーのバルバロッサ作戦では砲連隊司令官だった。

そして、脱走の日の7月9日、現在のベラルーシでヤコフは軍の撤退にあたって援護射撃を命じられた。

しかし、直後にヤコフは逃げ出し、ナチスに捕獲されてしまった。

「ナチスの捕虜」はスターリンにとって、まさに「反逆」そのもの。ましてや自分の息子が捕虜になるとは、考えたくもない。

 

ナチスに捕虜になった兵隊で、後にロシアに返された数十万人は、すぐにシベリアの刑務所に送られた。

25年という長期の刑。捕虜になることが犯罪とみなされていたからだ。

 

それほどの罪とされているのに、なぜヤコフは捕虜となったのか。

 

それらの秘密を明らかにするエピソードが、ベルリンの防衛省アーカイブに残されていた。

ヤコブ自らが語った軍脱走時のエピソードだ。

ヤコブによると、彼のユニットがドイツ軍に囲まれたとき、誰もが別々の方向に逃げようとして、完全なパニック状態になったという。

「誰も地図を持っていなかった。すべたがだらしなく、まとまりが悪かった。まったく戦争のための準備ができていなかった…」

逃げ出すのも、仕方がなかったのかもしれない。

 

しかし、捕虜になるのは、自ら望んでいた可能性がある。

彼と一緒に逃げた兵士の告白によると、民間の服に着替え、湖畔に到着したときにヤコフが「君は逃げ続けろ。僕はここで少し休む」と言ったという。

それは、自ら捕虜になるつもりだったことを示唆することだった。

 

彼ははたしてシベリアに送られたのか。

スターリンは周りに「息子は決して捕虜から逃げることはない」と言っていたようだが、息子がシベリアに送られた記録はない。

戦争が終わる前の1943年4月、ヤコフはベルリンで射殺されていた。

ザクセンハウゼン強制収容所から脱出しようと試みたときだった。

 

その後、スターリンの口から、息子ヤコフについて、最後まで語られることはなかったという。

もし息子が捕虜になったことが明らかになれば、シベリアに送られた兵が黙ってはいないからだ。

 

記事では、ヤコフが脱走兵になり、捕虜となった一連のストーリーを、「第二次世界大戦最後の秘密」として報じている。

長年明かされることのなかった防衛庁のアーカイブファイルにアクセスし、報道したのはドイツのシュピーゲル誌。

アーカイブはポドルスクにあり、勘当から兵の志願、脱走、捕虜などのヤコブの人生が記録されていた。

 

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