通り過ぎない。 椅子を置いて過ごすこと。
桜の日々がもうすぐ終わる。
桜が咲きはじめてすぐ、「人混みの中の花見はしたくない」とハチくんに告げた。
最近はよくピクニックをしているし、そういう静けさが好きだったからだ。
大人数での花見に積極的になれない。
咲き始めてすぐの金曜日、一人で車に乗り、狭山湖近くの野山北・六道山(ろうどうやま)公園に行った。ここは狭山丘陵の谷間が多く残る公園で、里山としての暮らしも覗ける場所。
私は赤坂谷戸と呼ばれる谷間から歩いて丘陵に入っていった。
歩いているのは、私ひとり。
なんの期待もせず、坂をのぼっていく。
すると、一本の桜の木があった。
そしてテーブルと椅子もある。
立派に咲き誇った桜を見ながら、ぼーっとした。
弁当も何も持っていなかったから、ただぼーっとした。
一本の木を一人で眺める。
この公園のスケール、バラエティを知ったのは、このときだ。
スマホで調べてみた。
桜の前には、ハイキングの遊歩道がある。
ここから各谷地に歩いていける。公開されている古民家にも行ける。
標高205メートルの展望台もある。
一人、遊歩道を歩いた。
楽しくなってきたので、谷地を下りて車に戻り、里山民家に行き、富士見台という高所まで行った。
奥のほうに、こんもりと半島のように突き出た丘がある。
ここは桜が何本も咲いていて、眺めもいい。
そこに椅子を置いた。
私がこの日考えていたのは、スロヴェニアのブレッド湖のような空気を感じたいこと。
行ったことがないけれど、フランスのアヌシーのような気分を味わいたいこと。
だから狭山湖に向かっていたのだ。
六道山公園に辿り着くまに、湖のまわりを走ってスポットを探したが、それは見つからなかった。
富士見台は湖が見えない。湖畔ではない。
でも、椅子を置くことで私はここに「落ち着いた」。
なんともいえない、穏やかな気分で桜を眺めた。
どうしてなのかと考えると、
「ここで過ごす」と決めたこと。以外にない。
これからの数時間、ここでのんびりしようと決めたことで、ここの風景をしっかり味わい、眺めることができたのだ。
自然は日本にたくさんある。
でも、ハイキング、遊歩道のように、歩き、通り過ぎると、落ち着きはない。
椅子を置くことで、その自然が自分の場所になる。
私はここでおにぎりを食べ、一人花見をした。
キャンプも同じだと思う。
「ここで過ごす」と決めることで、そのサイトが自分の空間になる。
テントをはり、タープをはり、椅子を置くことで自然の風景が自分の場所になる。
別荘を持つことも、花見も同じだ。
湖も山の中も、水があり木があり、通り過ぎればただの湖と山だけども、「ここで過ごす」と決めたら、本をのんびり読んで過ごすような、バカンスの空間になる。
この方法を捉えるだけで、自然との付き合い方はぐっと身近になるような気がした。
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