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《ぼくたちに、もうモノは必要ない。》読了記

ByRem York Maash Haas

6月 18, 2015
rem york Masse haas
Facebook http://www.facebook.com/maashjapan

 

一緒にサイト《ミニマル&イズム》を運営している佐々木さんの書いた本《ぼくたちに、もうモノは必要ない。》が売れている。

 

http://minimalism.jp/archives/1030

 

読了記を書いて考えた。

もし佐々木さんが、あのときミニマリズムに興味を持たなかったら、どうなっていたのか。

私は一人でミニマリズムを追究していたのか。

それとも、冷めていたのか。

 

ミニマリズムのおかげで身につけた習慣性は、とても心を落ち着かせる。

クロアチアの半月間は刺激だらけだったが、帰るといつものように少し憂鬱になる。

いつものこと。

静かに習慣性を持って暮らしていたならば幸福感が続いてたはずなのに、刺激が大きくなって、その習慣性も崩れると、どっと揺り戻しがくる。

刺激さえも、ミニマリズムが必要なのか。

 

いずれにしろ、ブログで佐々木さんとミニマリズムを考え続けたおかげで、今考えている様々なテーマがあると気づいた。

そのテーマは今回のクロアチア取材のテーマとなり、本となる。

 

もし一人でミニマリズムを追究していたら、このテーマを思いついたかどうか。

もっと違うことを思いついていたのか。

 

もしの人生は想像できない。

想像にも限界がある。

 

やっぱり、今が素晴らしいと、思うよね。

 

ミニマリズムは、人に影響を与えやすいイズムなのか。

 

 

 

ところで、佐々木さんが本の中で「今が大事」と書いていた。

私も昔、今、瞬間について書いたことがある。

ウェハというサイト(http://weha.cocolog-nifty.com)でなのだが、細かくわかれているので、ここにまとめたい。

 

瞬間意識

 

世の中に哲学はあふれている。
が、現代の日本で、実際に哲学を読んだり理解する人は少ない。
身辺に限って言えば、皆無かもしれない。

それでもある日、「私」とはいったい何なのか?
と、哲学的な問題が脳で計算をはじめるときがある。

 

それが哲学だと分かっていても、ニーチェやサルトルをめくろうとは、まったくもって思ったりしない。
本屋で手にとってみる。
どのページも難しい言い回しと専門用語。現代に生きる私たちに「入ってくるな」と言っているのかもしれない。

 

「私とは何か」とは、宗教的な問いでもあるけれど、正直なところ、戦後、脱宗教の教育を受けてきた現代日本人にとって、キリストや仏教、神道について必ずしも人生で深く考える必要がなく、私にとっては宗教が人生の手助けにはなっていない。宗教的観念で精神を救おうと思ったことはわずかしかない。

宗教にも哲学にも守られない、裸の精神。
人類が作り上げた宗教と哲学に頼らずに、「私とは何か」を考えることができるのだろうか。

 

「私とは何か」と、ごく普通の日本人であり、哲学と宗教とは無縁の私がどうして考えたのか。
それは以下のエピソードの通り。

 

ある日、映画を見た。
それは、『シックス・デイ』という若干つまらない近未来ものだった。
その物語の中で、ある男が死にそうになる。
時代は未来なので、クローン技術は高度に発達している。
その最先端技術は、記憶やDNAをその男から取り出して、年齢も体も記憶もまったく同じクローンを数時間で作る。
その男が死んでしまうその前に、元気な自分が生まれ、血を流しているその男をクローンが見下ろすことになる。

それが、実に、ぞっとする光景。

 

興味深いのは、まわりの友人や関係者には、黙っていれば何も変わらないことだ。

友人にとっては、「自分のことを覚えている」懐かしい人がまたあらわれるだけで、ちょっと入院していた友人が退院したのと変わらない。
抱き合ったり、握手したりして、お互いを確認しあえば、それでオーケーだ。
こうして「私」は、いつも通り存在し、なくならない。

 

それでいいじゃないかと、映画の中の「世の中」は言っているのだ。

 

それを観たとき、人が思う「私」と、本当の「私」は、違うものなのかもしれないと、哲学を知らない凡人は考えた。

 

 

 

乗り移ったわけでもなく

 

まわりの人が同じように愛してくれる自分が生き残った。
世の中はいつも通り。
誕生日パーティだってやってくれるだろう。

そのときの新しい私は、本当に私なのか。

もちろん、最初の、本当の「私」ではない。
自分は新しいクローンに霊魂として乗り移ったわけではないからだ。

 

どう考えたって、「私」は、死んでしまったはずだ。
脳で起こる神経の作用や、電気や磁気が起こす何かは、ぷっつりと途絶えて、「私」は消えてしまった。

私は消えてしまったのに、偽物の自分が生きている。

そのとき、生き残ったクローンに対して、あなたはどう思うだろうか。

 

 

新しいクローンが生まれ、死に際に挨拶を交わすとする。
新しい彼に対して、あなたは我が子のように応援したくなるだろうか。
もしあなたが運良く生き延びて、それでも瀕死の状態だとする。

そこで、健康なクローンが隣で笑っていても、気持ちよくいられるだろうか。

 

もし憎い、と思っても、世の中にとっては、憎いあいつは「あなた」だ。
昔の思い出を共有でき、考え方も何もかも同じなあなた。
違うと言い張るのは、傷ついた瀕死の、弱虫になったあなただけ。

 

元の「私」は思うかもしれない。
その、みんなが認めている同じ名前の、同じ顔した人は、「私」ではありませんよ。
顔は同じですけど。
声も同じですが。
私じゃないんです。

 

彼は、私の夢をこれから叶えてくれるかもしれないけど、私じゃないんです。
私は体から血を流して、苦しんで死んだのです。
彼は幸せそうな顔をしてますが、私は、もう世の中にいません。

 

 

世の中にいる私

 

それならば、大事なのは、大切な「私」とは、そもそも何だったのか。
人が見ている私、人の記憶の中にある私ではなかったのか。
社会の中の一員で、人類の歴史の中に生きる私ではないのか。
名声のみを得んとして生きた歴史上の人物は多いと聞く。

名が残れば現世の苦しみなど我慢できるのではないのか。

 

この映画からクローンと自分の関係を考えると、「違うのかもしれない」と思いたくなる。
結局は、世の中が認める自分なんかどうでもいいのではないか。

それよりも、自分の体とともにある自分、私が、何よりも、大事なのではないか。

 

体の停止とともに、「私」はぷっつりと終わる。
はかないものである。
自分の体とともにある自分、私は、体を替えることができない。
考えるという行為をしている意識は、体と一体化している。
意識は、この体とともに、幸せや楽しさを感じていたいと思っていた。

 

 

 

意識には「今」しかない?

 

ここでずっと考えている体の中の「私」とは、その意識という言葉に置き換えられる。

たとえば、自分があるビデオに映っているとする。
それはまわりから自分の名前で意識される自分。

テレビの前で、私は「あ、映ってる」と考えている。

「意識」は体から逃れようがなく、この体の中にがんじがらめというか、「永遠」のように存在している。
霊魂のように、他人の体に乗り移って人生を愉しむことはできない。

そうなると、人が見ている自分よりも、自分の内面にあるこの意識こそを大切にすべきだ。

 

そして意識は、存在として、瞬間にしかないのではないかと思った。

 

 

「かけがえのないもの」なのか

 

「私とは何か」
自問する。
脳みそのあたりで、「私とは何か」という言葉のイメージがあらわれる。
「わ た し と は」
そのうちに、時間は過ぎていく。
「私」は時間とともに動き、決して止まらない。
記憶や写真に「私」は残るが、「幸せだな」とか「気分悪い」と感じる「私」は常に今しかない。

 

記憶や写真に残った私とは、前に考えた、人が認める社会の中の「私」ではないか。
つまり、つい5秒前や、1分前、昨日の記憶は、すでに別の「私」になってしまう。
未来も同様だ。

 

それが正しいのか間違っているのかはとりあえず答えがないので、そうだとする。
すると、本当の私、意識、自分は、瞬間の「今」しかなく、まったくもってかけがえがない。
すぐに滅びて、再生し、続いていく、今この瞬間。
それが「私」なのか。

 

 

今が大事とは?

 

過ぎ去った意識、つまり記憶は、人が認める自分の姿であって、本当の自分は「今」その瞬間にしか存在しない。
それが正しいのかどうか。
今、マックブックエアでこの原稿を書いているこの瞬間も、その答えは出ない。

 

キーボードを叩きながら、NHKの朝ドラの「つばさ」を見ながら、お茶を飲みながら、今、この文章を書いているのは少し楽しいと、私は思っている。

今、この瞬間の意識が大事だということは何なのか。

「今を生きる」という言葉を耳にしたことがあっても、「今」を本当に意識して、今を楽しもうと思ったことは、果たしてどれほどあっただろうか。

未来のために、将来のためにと考え続けるのが人間であり、大切だと思い続けた自分にとっては、「今」だけを大切にするというのは衝撃でもある。

「今」だけを生きるのは、「堕落」のように感じていたからだ。

 

 

〈今を生きる〉は、現代に通用しないのか

 

悪いように書けば、いくらでも書ける。
今だけを見て生きることの弊害。

一日中友人とトランプ。
麻雀。
ゲーム。
パチンコ。
酒。

駄目な人生。
堕落。

それをアンチテーゼに生きている人は多いはずだ。
未来を見て、自分を向上させる。

逆に、ポジティブに考えてみる。
トランプ。
ヨーロッパの多くの人々の毎日を熱狂させ、退屈な毎日を楽しいものにしてきた。
コミニケーションを円滑なものにし、思い出を共有させ、会話を楽しむ。
ストレスの発散には最高。
麻雀も同様。映画「ジョイラッククラブ」を観ているとそう思えてくる。
いつも卓を囲んで麻雀ばかりしている親たちだが、その卓を囲んで、親たちはさまざまな人生の思い出を共有している……。

ゲーム。
やり過ぎて死んだ人もいるというから、それは肯定できない。
ただし、このゲーム産業を生み出したのは、ゲームばかりやっていた子供たちかもしれない。

パチンコ。嫌いなのでわからない。それでも、パチンコがないと毎日がつまらなくてどうしようもない人もいるかもしれない。

酒。
今ちょうど、アルコール依存症から立ち直った人がテレビで言っていた。
「今のことしか考えない」
将来のことを訊かれての答え。問題が起こったときに考える、今のことをしっかり考えて生きたい。
今しか考えないというその答えは、その番組の聞き手のプロデューサーにとって、「素晴らしい考えだ」とは到底思えなかったに違いない。
進学校から大学へ進むということは、将来をしっかり考え、不安だからこそ今を捨て、勉強に励んできた結果。そこに誇りを持っている人々にとって、「今だけ」はやはり堕落の象徴なのだ。

やはり、「今だけを生きる」というのは、現代では通用しないのだろうか。

 

 

実は映画のワンシーンのように美しい人生

 

 

映画ではよく、人が楽しく語らい、酒や食事を楽しむシーンが登場する。
素敵なものだ。
自分の人生に足りないもののような気になったりする。
ヨーロッパやアメリカの大都市に行くと、金もないし、アジア人だし、ちょっと高級な店には一人じゃ入れない。
店内は素敵な灯りで、楽しそうだな、と思う。

それは、本当に自分の人生にないのだろうか。

 

実際は素敵な店で、素敵な居酒屋で、わいわいと素敵に友人たちと食事をしている。
ビデオで撮影でもするとよく分かるはずだ。

それに気づくことはあまりない。
それに気づくには、「今を楽しもう」という意識が必要だ。

そう思い、友人たちと酒を飲んでいるときに、「今、この瞬間を集中して、楽しもう」と意識した。これは映画で観たような、人生の1ページであると。

 

そうすると見えてくるものがある。
美味しいお酒。友人の表情。食事。
灯り。
雰囲気。
自分の気持ち。

普段なら、終電のこととか、仕事のこととか、時々余計なことを考えてたり、数多くある食事のひとつ、くらいにしか思わない。

それが、瞬間を意識するだけでがらっと変わる。

 

 

 

今を見つめて生きるのはけっこう難しい

 

「私」について考えてきた。

私はこの体と一心同体であって、離れることはできないと知った。

名声だとか、人の評判、過去、未来よりも、最上位に大事なのは、今の自分だとした。

つきつめると、瞬間になった。

 

しかし、今だけを見ていて生きていると、何も成さないかもしれない。

一方で、今だけをしっかり見つめると、楽しさ、充実感につながるかもしれない。

ならば、つらいとか、ゆううつとか、人間が抱える精神は、「今をしっかり見つめること」で、果たして薬になるだろうか。

だとしても、「今をしっかり見つめること」は、案外むずかしいーーー。

 

アップルCEOのスティーブ・ジョブスは毎朝、今の自分は本当に望んでいる自分なのかどうか自問するというが、あなたはできるだろうか。

日本の会社の「カイゼン」のように、毎朝自分に自問自答する。
本当にやりたいことをやっているか。

しかし実際には生活があり、電車にのって会社に行かなくてはならず、学校に行かなくてはならず、気の合うとも限らない大勢の人と会わなくてはならない。今の仕事は決して自分で望んでいるわけではなくても、給料は必要だ。
書いてるだけでも憂鬱になる。

そうなると社会のシステムそのものの批判になるので、やめておく。

ただ、いつの時代も、やりたいことをやるために、今を精一杯生き抜いた人々はいた。

たとえば、恐怖政治と今もフランス国民におそれられる「レヴォリューション」、フランス革命だ。

 

堂々とギロチンにかけられたフランス革命の闘士たち

 

フランス革命が起きた時代。
それは、上流貴族の子供はとにもかくにも順調に出世し、庶民は努力と才能があっても上には行けない時代。
最初に革命を盛り上げた人々は、「自由に生きる、さもなくば死」をテーマとしていた。
必死の覚悟。
必死の覚悟で、その自由を世界の都市にひろめていくべきだと考えていた。

 

国家財政の破綻により、今まで税金を払わなかった貴族に税金を払ってもらおうとしたルイ16世の案から、フランス革命は始まった。
税金法の改正のために三部会の収集(第一身分は僧侶、第二身分は貴族、第三身分は庶民)をすると、第三身分は自らを「国民議会」と称した。

この画期的な庶民による議会を、国王が認めるか認めないか、それが国民と関心事となり、噂、恐怖心により暴動「バスチーユ陥落」が起きた。

そこからは雪崩のように運動は加速し、ギロチンが発明され、それにアイディアを出した国王さえも処刑される。

およそ2800名。

それが革命のさなか、内部粛正などでギロチンにかけられた人数。

 

それでも多くの人が、それにあわてふためくわけでもなく、革命のために人生を捧げ、思い残すことなどない、といったふうに、堂々と処刑台に立ったという。

それほど、革命によって変わったものは大きく、革命の動乱は彼らの「今」を燃えさせ、激しく震えたはずだ。

現代に生きる日本人には想像もつかないほどに、彼ら彼女らは今を生きた。

 

 

DNAは今を忠実に生きる

 

「死を恐れない」ほどに、今を生き抜く。
それは、今の日本の社会では現実的ではなく、だからこそ輝いて見えることもある。

フランス革命や明治維新ではそうして多くの人が命を落とした。

 

一方で、革命のない時代に生きる我々は、今を燃焼させる方法はないのか。
実は、普段の平凡で静かな毎日でも人は今を追求するDNAを持っている。

マット・リドレーという人が、「やわらかな遺伝子」
という本で、DNAが人生に及ぼす影響について書いている。

知能は子供時代、50%が環境に左右され、残り50%が遺伝、つまりDNAの影響を受けるという。環境とは家庭環境、学校、地域社会のことだ。
しかし人間は、いずれ学校を卒業する。仕事以外の時間を自由に使うようになる。
やりたいことをする。
本を読む、映画を見る、スポーツをする、観る、勉強する。
そうして、遺伝子の影響が60パーセントになり、中年で80パーセントになる。
人は、スポーツ好きの遺伝子を多く持っていればスポーツばかりする人になる。
本好きの遺伝子が多ければ、毎日本を読む。

結局は、遺伝子によって我々の知能や性格、趣味がほとんど運命づけられているというのだ。

「生まれか育ちか」
その答えがそこにあった。

 

生まれか育ちか

 

「生まれか育ちか」
それは、遺伝子(生まれ)や環境(育ち)の影響度から考えると、20歳ごろまでは半々で、それ以降は遺伝子(生まれ)が圧倒的な力を持つ。
環境の影響を受ける子供時代は、互いに競争させることでどんどん伸びる。しかし、大人になると競争よりも「今」を自由に生きようと人はするのが本能ということになる。
それが、スポーツ選手だったり、企業戦士だったりすると、環境の影響もまだ大きく、犠牲も強いて競争を続ける。
それでもスポーツ選手はそのスポーツが好きだから、今をしっかり生きることができる。

でも、企業戦士はそうとは限らない。本当はスポーツが好きなのに、電気製品の営業でライバル会社と戦っていたりする。

本当はもう、競争なんてうんざりなのだ。
好きなことをしていたい。

 

昔から自由に、好きなことを頑固にし続けて、脈絡もなくそのときそのときを好きなことに没頭してい生きている人も、それが何十年も続くと、何か立派なタレントが身についているかもしれない。

結局、長く続けるというのは、遺伝子がそれを好きかどうかというだけなのだ。
「好きこそものの上手なれ」は現代遺伝子学でも正しい。

 

 

環境は自分で見つけ、作り上げるもの

 

今を大事に、集中して、自分の好きなことをしっかりやり続けていると、誰でもプロフェッショナルなスキルを手にする。
自分の好きなことは何か自問自答して、見つけ、楽しむこと。

そう書くと、ジョブスが言っていた毎朝の自問自答もわかる気がする。
彼が言っていたのは、本当に朝自問自答しろと言っているのではなくて、好きなことを今できるような環境に、しっかりと自分を置いているか、と問いかけている。
大人になって、環境に支配されてはいけないと。
環境は自分でみつけ、自分で作り上げるものだと。

 

人間は頭がいい。
計画的に物事を運べる。
高層ビルも建てられる。

人生も計画的に運ぼうとする人もいる。今を犠牲にして10年後のためにトレーニングを続けることなど、美徳とされる。
計画的にお金をためて、投資・運用をする人もいる。

 

しかし、自分の中にいる、今の「私」は、今、その瞬間の幸せを常に求めているはずだ。
それは数年前の計画的な人生設計のおかげで成り立っている幸せかもしれないが、本当に果たして計画通りだろうか。
数々の出会い、偶然によって成り立ってはいないだろうか。

 

断言すれば、
10年先は、実はまったく予想がつかない。
ましてや、自分の10年後など、つくわけがない。
世の中の仕組みは想像を超えて変化し、災害も起きる。
自分が事故を起こしたり、犯罪に巻き込まれているかもしれない。
死んでるかもしれない。

予想がつかないのに、人はお金を借りる。
金貸し業は上手くできているーーー。

 

 

銀行は毎月の人生を決めてしまう

 

銀行や金貸し業では、毎月の入金を定める。

5年後にまとめて返すのでは駄目で、とにかく毎月の決まった時間までに細かく入金しろという。

それが何らかの事情があって、あとに入金できたとしても、小切手の不渡りなどが起こる。
人生は何が起こるかわからないのに、毎月の人生を決めている。

 

もしもその月に返せないとなれば、担保となっている不動産などの財産を没収。不況ならば格安で破産した会社や人から多くの財産を手にすることができる。

毎月の家賃分を使って同額でローンを組み家を買うなら問題なさそうだが、それでもサブプライムローンの問題が起きた。変動する金利ほど恐ろしいものはない。

 

人生は予想できないのに、社会は計画しなくては生きていけないような仕組みになっている。

賭けに出て原資を借りて、成功すれば儲け、経営者として生きていける。

借りなければ、いきなり事業をはじめることはほとんどできない。

国自体が大昔からお金を借りて運営しているのだから、もうどうしようもない。

 

 

明日のことはやっぱりわからぬ

 

「自分や人類の成長・発展は、ほとんどが偶然から起こる」と大きな声で言ったとしても、信じる人は少ない。
賢く考えて、予想し、計画的に人類は発展を遂げてきたはずだと考える。

しかし、やはりほとんどが試行錯誤、失敗と成功の繰り返し。
手術も科学も、偶然から発見があった。
計画的になったのはこの100年くらいのことだ。

 

計画的になると、その場その場の対応が鈍くなる。
無理に計画を通そうとし、時代の流れを掴めない。
計画通りにいかないと、ネガティブになる。

今を見つめ、集中するということは、常に最新ニュースのウェブページを更新していくようなものだ。
つい何分か前のページはすっかり記憶から消して、生まれ変わる。
過去に固執しない。
未来に固執しない。

それでも人は予想する。期待する。将来を憂う。
その予想のつかない10年後に怯えて、「私」という精神は崩壊しやすい。

でもどんなに怯えても、明日のことは誰にも分からない。

 

 

消えては生まれる瞬間意識

 

私は知らない人と頻繁に会うのは苦手だけれども、考えてみれば人と会うたびに何かが起こる、はじまる。
面倒だけれども外出して、新しい店の外観を観たり、雑誌を立ち読みすると刺激を受けたりする。

もうそうなると、明日のことも予測つかない。

考え方を逆にすると、「1時間後に何に出会うかわからない」「明日魅力的な何かが起こるかもしれない」と期待することもできる。たいていの人はしないが。

そうやって、今、この瞬間に起きることに集中し、今目の前にある問題に必死で取り組み、試行錯誤をするということは、本当に大事なことに思える。
今さらのようで幼稚くさくもあるけれど、たぶん大事なんだと。

 

草木の揺れや風の気持ちよさ、夕日が照らす木の幹。
子供の声、友人の笑い声、家族の団らん。
そういった今ある美しさを敏感に感じ取ることも大事なんだと思える。

 

「私」は、今という常に流れていく時間と、共にある。
「私」は過去にストップしないし、未来に飛んでもいかない。
瞬間の今の私こそ、私であり、幸せであるべき人だ。

言い換えれば、「私」は、この瞬間の今しか存在しない。
はかなく消えては生まれる、瞬間の意識でしかない。

 

 

 

2009年11月 沼畑直樹

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