ビクトル・ハラ殺害事件の真相は?

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チリは昔、軍部のクーデターによって国内で数々の悲劇が生まれました。
クーデターによって窮地に立たされたのは、チリ人民連合政府またの名をアジェンダ政権と呼ばれる政府。
労働者の政府として成立したばかりで、歌手ビクトル・ハラは象徴的存在でした。

そのビクトル・ハラが、スタジアムで虐殺されたという話があります。

チリ南部の貧しい村で生まれたビクトル・ハラ(ヴィクトル・ハラ)は、青年となってチリ大学に入学。
歌を通じた社会変革を目指すヌエバ・カンシオン(Nueva cancion)の旗手となります。
このLa plegaria a un labrador『耕す者への祈り』は、1969年の「新しい歌」という大会で優勝した歌。
4年後の1973年に軍によって殺害されます。

伝説では、スタジアムに連行された人々をはげますために革命歌を歌ったところ、軍によってギターを弾けないように両手を撃たれ、それでも歌をやめないので銃殺されたとなっています。

しかし、その真相は明らかになっていません。

ウィキペディアによると、連行時は後ろ手に組まされていたので、伝説にあるような「両手を銃で撃ち抜かれた」ことはないのではないかとのことです。
手拍子で歌っていたところを地下に連行され、銃で撃たれたと書いています。

しかし、関係者によって語られている事実はやはりちょっと違うようです。
ここで、真実とされ語られている話をまとめると、

捉えられたのは約5000人
食料・飲料水を与えられず、数日間放置
ハラはギターが弾けないようにと両手の指をつぶされる
顔面、肋骨、腹部等を蹴られ、銃床で殴られる
金髪で声の高い、プリンスと呼ばれる准尉が、ハラのこめかみでルシアン・ルーレットをする
遺体には44発の銃弾と無数の骨折
遺体は道路に放り出される

という感じで、ひどい感じです。
2009年には実行犯が逮捕されました。しかし、逮捕された2名は当時18歳の召集兵。命令した人ではなさそうです。
ロシアン・ルーレットでは兵士6名が参加したようなので、その中のメンバーでしょうか。

ならば、プリンスと呼ばれたものは誰だったのでしょうか。
今も明らかになっていないようです。

現場のチリ・スタジアムは現在、「ビクトル・ハラ・スタジアム」と名付けられています。

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