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バンドブームに愛を込めて

ByRem York Maash Haas

9月 12, 2019
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1974年生まれの誰かに。

文 沼畑直樹

令和元年で44歳の今、新しい音楽も聴きつつ、中学高校で聴いていた歌がひたすら懐かしくなっている。

それはいわゆるバンドブームだが、その思い出が自分だけのものであるということが最近わかってきた。

小学生のときに出会うのと、中学生のと、高校生大学生、大人になって出会うのでは、それぞれ感じ方が違う。私がそれぞれのバンドと出会ったのは、中学生や高校生だったからこその感じ方をしていたのだと、ようやく身にしみている。

同世代だけが共感できるのだ。

そう気づいたのは、大人になって音楽関係の方々と仕事をするようになり、年代の違う人々との会話を重ねたせいだ。私が好きだったバンドブームを牽引した方々にとっては、それはセンチメンタルなものではなく、ビジネスであり、私にとってはセンチメンタルでしかないということ。年配の方には年配の方なりの若く多感な頃があり、自分にとって昔の音楽が偉大な存在になっていること。

だからこそ、あのバンドブームの素晴らしき人々に本当に感謝しなくてはならないのは、自分なのだと気づいた。

私は本当に、バンドブームにどっぷり浸かっていた。好き度1000パーセント。それはつまり、中学時代にバンドブームと遭遇したからだ。

中学校一年生(私の記憶ではずっと小6だと思っていた…)のとき、BOØWYが『季節が君だけを変える』をシングルで出した(1987年10月26日)。兄貴が持っていたアルバム『ビート・エモーション』に出会っていた私は、その「大人」の音楽に少しずつ惹かれて、BOØWYが好きになっていた。アルバム『PSYCHOPATH』(1987年9月)からシングルカットされたのが『季節が君だけを変える』で、アイドル雑誌『明星』の付録に載ったその歌詞を何度も何度も読み込んだ。

兄が読んでいた「大人」の音楽雑誌『FM STATION』でもBOØWYの特集は何度も組まれ、その深遠なる世界により深く引き込まれようとしていると、あっという間に渋公の解散宣言と東京ドームのLAST GIGSはやってきた。

それは1987年。12歳と13歳の年。米米クラブの『Sureダンス』も兄貴が買ったケンウッドのコンポから流れていたし、映画『プロジェクトA2』と『漂流教室』の同時上映を観に行ったのもこの年。音楽業界ではアイドルの歌が少しアーティスト色を強めて売れまくっていた。

1988年。LAST GIGSと同時に中学2年になると、尾崎豊が覚醒剤による逮捕からの復活するために『夜のヒットスタジオ』で『太陽の破片』を歌った。

雑誌『パチパチ』でその記事を読みながら、なんとなく尾崎豊を知るようになった私は、当時出た『街路樹』というアルバムに取り憑かれるのだが、彼のブレイク自体はもっと前で、「本当」のファンはそのころ(『卒業』や『シェリー』)の先輩たちだ。

BOØWYにも尾崎にも先輩たちがいて、終わりかけの彼らを好きになる中学生の自分。『CASE OF BOØWY』という4巻組のライブビデオをすり切れるように聴いていたのは解散後のこの年で、「一歩遅かった…」という思いはぬぐいきれなかった。そのため、余ったパワーは解散後の氷室と布袋に当然のごとく注目していく。

自分で買ったはじめてのアルバムは10月に発売された布袋寅泰『ギタリズム』。予約特典ももらい、買ってもらったばかりの小さなラジカセにCDを入れるという特別な儀式。歌詞がすべて英語というのは少し大人すぎて、BOØWYの音とも違ったが、無理くり好きになった。一方で、兄が買った氷室のデビューアルバムは素直に入り込めた。

そういったBOØWYの残り香から卒業する日がやってくる。クリスマスイブに放送された「伝説の音楽番組」であるNHKの『1988クリスマスライブスペシャル』。『ジャストポップアップ』という音楽番組のクリスマス特別番組だった。

まず、若手バンドとして同時に少しだけ紹介されたのが、ジュンスカイウォーカーズとユニコーン(かれらは『ペケペケ』で出演しているので勘違いかもしれない)。そしてスーパーバッド。

ジュンスカの『素敵な夜空』のPVが少しだけ流れ、ユニコーンの『I’m a loser』が流れた。それ以来、この二つのバンドに深くはまる。

他にもこの番組には、岡村靖幸が変な踊りで『19』を歌い(『聖書』を歌っていた記憶があるが勘違いだった)、バービーボーイズは『なんだったんだ7DAYS』、米米クラブは『Shake hip』、プリンセス・プリンセスは『19Growing up』と、私にとっては伝説的なTV番組となった。プリプリはこの出演がきっかけでその後大好きになる(世の中的にはドラマの主題歌などに別の曲が起用され認知度はあった)が、この必死に歌う『19Growing up』が好きすぎて、売れて以降(『ダイヤモンド』)の歌い方がどうしても好きになれなかった。

他にもこれがきっかけで好きになったのはアップビート。雑誌『パチパチ』でも大きく取り上げられていたバンドで、大人になってから音源を買い直している。また、BUCK-TICKはデビュー曲『Just one more kiss』でインパクトを残していた。

これはすべて、私が生まれ育った札幌で観ていたテレビの話だ。

札幌では当時、深夜番組『ミュージック・トマト(ミュートマ)』が放送されていた。大人になって知ったのだが、これは神奈川のTVKが制作していた番組で、今もTVKで続いている。日曜日の昼は『HITS』(テレビ朝日)という泉谷しげる司会の番組をよく観ていた。放送されたなかで最も印象的だったのは、ブルーハーツが初心にかえるという特集で、新宿ロフトでライブをやるときのもの。(おそらく1988年)

そこで、まだドラマ『はいすくーる落書』(1989年1月)に採用される前の『TRAIN-TRAIN』(1988年11月)を歌う。

そして、観客席でリズムを取りながら涙を流す女の人を見た。あれから20年以上経つのに、忘れられない。

爆発的に売れる前の『TRAIN TRAIN』を観れてよかったと思う。

小学校5年生から札幌ではMTV(司会がマイケル富岡)や『ベストヒットUSA』が流れるようになり、ボンジョビと出会った私はハードロックファンにもなっていた。中学でギターを始め、BOØWYでもホワイトスネイクでもレッド・ツェッペリンでも何でも弾いていた。ヘヴェメタ系はひととおり、ヨーロッパ、ディープ・パープル、モトリー・クルー、KISSなど、どっぷり浸からせてもらった。なかでもヴァン・ヘイレンから脱退した直後のデイブ・リー・ロスの各PVは衝撃的で、名曲『Yankee Rose』はPVも面白いし、ギターがスティーブ・ヴァイ、ベースがビリー・シーン(後にMR.BIGを結成)という豪華すぎるラインナップ。シリアスだったハードロックが彼によってファンキーでポップなものに感じられたから不思議だ。

だから中学生のときには、洋楽としてハードロック、バンドブームではない尾崎豊、そしてバンドブームと、ごちゃごちゃな状態で音楽に没頭していた。

予約をしてCDを買い、ポスターをもらうというのがこの頃の買い方だった。ジュンスカの新作が出るなら予約。ホワイトスネイクの新作も予約。琴似という駅にあった玉光堂という小さな小さな音楽ショップに買いに行く。

高校の進学祝いはギターのデジタルエフェクター。高価なものだったが、なぜかそれを使うようになってからギターに醒めた。

高校では札幌で始まったロックフェス『ロックサーキット』に毎年行った。伝説なのは1987年の熊本で開催された『ビートチャイルド』。その年は中1だが、もし同じ年の『ロックサーキット』に行っていたら、解散前のBOØWYを観られたのだった。高校1年、90年のロックサーキットはユニコーンや売れる前のすかんちが出ていた。91年はブルーハーツ、ジュンスカ、ユニコーン。大人になってから一緒にお仕事をさせていただいているTHE BOOMも来ていた。

高校ではユニコーンもブルーハーツもどっぷりハマり続けていたが、高校2年生でデビッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』、エルトン・ジョンの『キャプテン・ファンタスティック』に出会い、趣味が少しずつ変化していく。

同時に、KANも聴いていたし、浜田麻里、まだドラム少女だったころの森高千里の1stアルバムにも手を出す。洋楽ではブライアン・アダムスやジョージ・マイケルとなって、バンドブームから少しずつ離れていく。イカ天(1989年〜)で人気となったバンドには取り憑かれることはなかった。

私にとってのバンドブームはジュンスカイウォーカーズあたりからだ。大人になってからバンドブームはBOØWYからだと言われて酷い違和感があったが、世間的にはそうらしい。ブルーハーツは例の明星の歌詞本に『リンダリンダ』で載っていたので、BOØWY世代だと感じてるが、タテのりのバンド(ビートパンク)という意味ではブルーハーツが始まりだったのかもしれない。BOØWYやハウンド・ドッグ、レベッカやバービーは少し前のバンド世代に見える。

バンドブームで好きになったのは他に鬼頭径五(『Train』)、ストリートスライダース(『ありったけのコイン』)、KATZE、アンジー。

高校を卒業すると、グランジブーム(だらしない格好をする人々がかっこいい)が来て、映画は『マイ・プライベート・アイダホ』や『シングルス』、音楽はニルヴァーナという路線に走っていく。バンドブームは、自分の中ですでに去っていた。

同級生と合わない。

札幌という地方都市の小学校で、小5から同じ音楽の趣味を持つ人はクラスには皆無だった。別のクラスの伊藤だけが洋楽を聴いていることにスキー場で気づき、高校卒業後に再会して遊ぶようになった。映画は『ダウン・バイ・ロー』が好きという奴だった(当時の同世代としてそういうことを口走るのはマセていた)。

BOØWYや尾崎は上の世代がコアファンなので、中学の同級生ではやはりファンは少なかった。ユニコーンやジュンスカ、尾崎で語り合えるようになったのは、高校になってから。中学ではまだまだアイドルの人気が根強く、聴いてたとしてもレベッカかTMネットワークだったはずだ。オリコンの1位は瀬川瑛子『命くれない』。光GENJIも中森明菜も中山美穂もチェッカーズも売れに売れていた。

バービーボーイズはそういったアイドルたちのヒットチャートの中で、アルバムがギリギリ食い込んでいて、『女ぎつねon the Run』はシングルとしてヒットしていた。

渡辺美里が『恋したっていいじゃない』でメジャーの仲間入りをしたのは1988年。『マイ・レボリューション』は1974年生まれならドラマ『セーラー服通り』の主題歌として大大好きだが、その後アーティスト色を強めてアルバムが売れる人になった。

洋楽ではボンジョビが世界中で売れていたし、年上の人たちには当然ファンが多かったが、中1、中2ではまだまだ少なく、友人を誘って啓蒙するしかなかった。

ハードロックで好きだったレインボーは、『ゲート・オブ・バビロン』というアルバムが素晴らしかったが、ジャケ写も内容も中学生には渋すぎた。唯一、図工の先生だけがわかってくれて、レインボーの貴重なライブ映像をビデオテープでくれたのを覚えている。

今の時代はYoutubeで何でも観れるから、小学生から聴く音楽はワールドワイドになる。だが、当時は映像に対する飢餓感はすさまじく、それが中学生だとなおさらで、ビデオによる映像作品には高くて手を出せない。氷室京介のデビュー直後のビデオ作品と、尾崎の東京ドームのビデオだけは買った。

同じ趣味の友人がいないから、中学生で氷室京介のライブと布袋寅泰のライブをそれぞれ一人で行った。大人たちに囲まれて、腕を振った。

高校になると、クラスの誰もが音楽好きになっている。バービーボーイズのアルバム『ルート5』(1989)、渡辺美里の『ribbon』(1988)あたりがクラスでヒットしている。ユニコーンもジュンスカもメジャーになっていた。

そのとき、なんとなくひねくれてしまった心情と当時の自分を、責めることはできない。

「渡辺美里なんて絶対に聴かない」そう頑なに思ってしまった。

それから、30年が過ぎ、当時の空気感を思い出したくて、「渡辺美里を聴こう」と思い立った。つい先日、『ribbon』を買った。

彼女の音楽を聴いていると、バンドブームあたりのすべての空気を思い出せる。

彼女自身はソロアーティストだったが、アイドルからバンド、アーティストという文化が育っていく過程のまっただ中にいたのだった。

そして、車の中で6歳の娘に歌わせようとしているのが、アンジーの『天井裏から愛を込めて』。44歳で聴くと泣けてくる、この素晴らしき歌を聴かせている。

天井裏から愛を込めて。蜘蛛の巣だらけさ。だ〜い〜す〜き〜。

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