ゴート族がローマを襲った本当の理由と、フリギドゥスの場所

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410年、ローマの塩の門から、ゲルマン系のゴート族(the Goths、ゴース)がなだれ込んだ。
裕福な屋敷の財産は略奪され、火が放たれ、平和だった市街は地獄となった。
裕福なものは人質となり、ほかは奴隷として売られた。

 

平和なローマが、蛮族によって破壊された…と世界史には描かれている。

 

しかし、ゴート族を蛮族(Barbarian)と呼ぶのは、あくまでローマの歴史家の意見。
ゴート族には、ローマを破壊するそれなりの理由があった。

 

そのきっかけとなるのが、フリギドゥス河畔の戦いだ。

 

392年ごろ、ローマ帝国は東西二人の皇帝が統治していたが、西側でクーデターが起き、皇帝が殺された。
殺したのは、反キリストを掲げるアルボガステス。

 

当然、東側の皇帝テオドシウスとの戦いになるが、そのときの司令官はローマとゲルマン(ヴァンダル族)のハーフ、スティリコ。そのローマ軍に、スウェーデンの南側を出身地とする金髪系ゴート族2万が加わった。

 

双方合わせて10万の軍は、今のスロベニアで394年の9月4日に会戦。初日はゴート族が1万の死者を出すも、翌日アルプス山脈から吹き下ろすボラと呼ばれる激しい北風(時速96キロ)によってアルボガステスの兵士は気力を失い逃走。アルボガステスは山中で自殺した。

 

このとき、ゴート族の長アラリックは、死者を多数出したにも関わらずローマから功績を認められず、その恨みからトラキア(ブルガリア)にあるローマの町を襲った。

 

一方、まもなくして司令官スティリコはクーデターにより殺害される。

その際、スティリコはアラリックと結託していたという噂が流れ、ローマにいたゴート人戦士の妻子が殺害された。

大虐殺だった。

 

ローマの外にいたゴート人戦士たちのもとに、その大虐殺の噂が届くと、彼らはローマ軍を脱走し、アラリックのもとに集まった。

 

戦士たちが望んだのは、もちろん家族の仇討ち。ローマ人に対する蜂起だった。

 

大虐殺から数日も経たないうちに、アラリックの軍隊はローマに進軍を開始する。

 

そして、アラリックは1度目の包囲でローマ市街に入る食料路を絶ち、ローマ市民を絶望させたが、やがて財宝と引きかえに包囲を解く。

その後、アラリックはローマに対して、ローマの全軍司令官となることを要求したが、侮辱的に拒否されたため再度ローマを包囲。

ローマ市民は迫害と餓死を恐れ、イタリアの各地へ、帝国の奥地へ避難した。

そのとき、ゴート人は多数の死者を出したフリギドゥス河畔の戦いと、ゴート人大虐殺の恨みを晴らしたのだった。

 

フリギドゥスはどこにあったのか

 

ゴート族のローマ侵略は、大虐殺に対する報復だった。

しかし、1万の死者を出したフリギドゥスで、アラリックの功績を認めていれば、何かが変わっていたかもしれない。

また、そもそもアラリック側の東軍が負けていれば、キリスト教の普及もなかったかもしれない。

 

では、世界史的転換点ともなった、フリギドゥスという戦いの場所はどこだったのか。

日本人としては、まったく検討もつかない。

かといって、英語で調べてもネット上にその場所が詳しく出てくることもない。

ネット上では「Battle of the Frigidus」と書かれているが、これはローマからの読み方(意味はCold)なので、グーグルマップの検索にもかからない。

英語ではFrigid Riverだが、これでも出てこない。

 

実は、この川は現地スロヴェニアではVipava(ヴィパーヴァ)、イタリアではVipacco(ヴィパッコ)と呼ばれているらしい。

グーグルマップで調べてみると、スロヴェニアの西部にその川はあった。

想像とは違い、驚くほど川幅は小さい。

この川は全長44キロ。イタリアに入るとすぐにIsonzoという大きな川に合流する。

 

一説では、戦いは今のスロヴェニアとイタリアの国境付近と言われている。それが正しいなら、戦いはこの地図のあたりということになる。

大きな地図で見る

 

国境を越えたイタリア側と違い、スロヴェニアは首都リュブリャナ以外に大都市はなく、どの町も非常にのどか。

このあたりもひたすら静かな田園風景がひろがっているはずだ。

ここから東方には有名なポストイナ鍾乳洞があり、南にはアドリア海の町ピランがある。また、アルボガステスが逃げ込んだスロヴェニア・アルプスの眺めは、凄まじいほどに美しい。


大きな地図で見る
ヴィパッコ川からスロヴェニア方面を臨む。

 

川のどこかには西軍が作った塹壕があり、そのためゴート族は1万の死者を出した。

その遺体はこのあたりに今も埋まっているのかもしれない。

 

 
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