西洋の歴史では「蛮族」の一つに数えられ、公共物の略奪行為を意味する「ヴァンダリズム(vandalisme、フランス語)」という言葉の語源となっているヴァンダル族。
「ローマ略奪」によって、ローマ帝国の崩壊を加速させた彼らはいったいどこへ消えたのか。
元々彼らが住んでいたのはポーランド中部で、ヴィスワ川は元はヴァンドルス川と呼ばれていたという。
彼らは400年頃、武力的には弱い民族だと言われていて、東からやってくるフン族に対する過剰なまでの恐怖心から、民族ごと逃亡生活を送ることになる。
彼らはローマ帝国領内のガリア(フランス)に逃げることを決め、407年ごろ、結氷したライン川を渡り、先に定住していたフランク族と争いながら、ガリア領内を南へ駆け抜ける。
その戦いでヴァンダル族の王を失いながらも、一族はイベリア半島への手前まで到着。
ローマ軍に一度は追い返されるも、ローマ内紛の隙を狙って一気にイベリア半島に侵入したヴァンダル族は、先に侵入していたゴート族やスペイン先住民(ケルト系)と戦いを繰り広げる。
貧しい逃亡生活の中で、自らの民族を守るため、彼らは少しずつ武闘集団としての力をつけていく。
そして、スペイン南部を支配している間、当時の王ガイセリックは船で北アフリカに渡ることを計画した。
ライン川を渡る手こぎの船の作り方さえ知らなかった彼らは、地元の人々から造船術を学び、数十年後には大船団で8万のヴァンダル人をジブラルタルからアフリカへ送った。
北アフリカは当時ローマ市民の穀倉地帯だったが、ヴァンダル族は武力をもってその一帯をローマから奪う。
ゲルマンの弱小部族が、蛮族バーバリアンとなった。
ローマ市民は北アフリカの穀倉地帯から届く穀物配給をあてにしていたため、蛮族にそこを支配されることは、まさに悪夢だった。
しかも、ヴァンダル族はローマ市に侵入し、金品を強奪した。
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ヴァンダル帝国の首都だったカルタゴ(カーセージ)の遺跡。
ローマを衰退させる一大王国を築いたヴァンダル族だったが、王ガイセリックの死後はあっけなく、533年ごろ、東ローマ帝国と地元傭兵によって滅ぼされた。
ヴァンダル最後の国王ゲリメルは捕らえられ、アジアの片田舎に追放され、その後の消息は不明。
他のヴァンダル人はどうなったのかというと、一説では、東ドイツからポーランド、つまり元の場所に戻ったという説がある。
彼らが定住した町として伝えられるのが、レグニツァ(Legnica)だ。その一帯であるシレジアとスラヴィアにはその後、スラブ人が住んでいるとされているが、それがヴァンダル人だという。
ポーランドにあるレグニツァ。
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当時は一帯にヴァンダロルムという王国があり、これもヴァンダル人の王国の可能性があるらしい。
北アフリカのヴァンダル王国の滅亡から一世紀後には、フランク族の王がヴァンダル人に会っているという。
その後も、ポーランドのスラブ族との戦いを、「ヴァンダル人の戦い」と表現する書物が残っている。
ヴァンダル人はシレジアやスラヴィアで長い時間をかけて地元民化し、やがて自らを「ヴァンダル」と呼ぶことをやめてしまったのかもしれない。
レグニツァは14世紀からは神聖ローマ帝国、1742年からはプロイセン王国となり、住民のほとんどがドイツ化していった。
他にも伝説は多くあり、ロシアの起源となる国家建設の際に呼び寄せたのがヴァンダル人だったという説や、21世紀まで続いていたメクレンブルク家の祖先がヴァンダル人だったという説もある。
メクレンブルク家はスラブ人を祖先に持つと考えているので、ヴァンダル人=スラブ人という意識もあるらしい。
ヴァンダル人が西方に移動をする以前から、ヴァンダル人はゲルマン系とスラブ系なのかはっきりしていない。
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メクレンブルク家(Haus Mecklenburg)発祥の地として知られるメクレンブルク。
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