ヒトラー暗殺計画 最後の生き残りが90歳で亡くなる。
ヒトラー暗殺を謀ったメンバーの最後の生き残りだったエワルド·ハインリッヒ·フォン·クライストが先週金曜日に亡くなった。
90才だった。
有名な1944年7月20日のヒトラー暗殺計画「ワルキューレ」。
ブリーフケースに仕掛けられた爆弾はヒトラーを殺すには至らなかったが、ドイツ人のヒトラーへの抵抗を示す象徴となった。
ハインリッヒは作戦の初期から参加し、自爆テロ犯に志願している。
彼は現在ポーランド領になっているポメラニア地方の貴族の家に生まれたが、歴史的にファミリーはドイツ政府の高官を務めてきた。
父親のエワルドはヒトラーに対するクーデターをサポートし、1938年、イギリスに飛び、英国政府の説得を試みたが失敗。
家族の反対にも関わらず、息子のハインリッヒは1940年ドイツ軍に入隊した。
1943年、東部戦線で負傷し、療養中だった彼に、あのシュタウフェンベルク将軍が接触してきた。
彼はワルキューレ作戦を練り上げ、ハインリッヒは爆弾付きベストを着てヒトラーの横に立つことを決意した。
当時22歳だったハインリッヒは、その計画を父親に打ち明けた。
止められるだろうと思っていたが、息子は父親を過小評価していた。
父親は悩む間もなく、「わかった。おまえはそれをすべきだ」と息子に言葉をかけたのだ。
ドイツ民族としての誇りを、息子にかけたのだった。
数ヶ月後、シュタウフェンベルクは爆弾入りスーツケースを会議室のテーブルの下に置いたが、誰かがそれを少し移動したために、ヒトラーは生き延びることができた。
事件の首謀者としてシュタウフェンベルクや父エワルドは逮捕され、処刑された。
ハインリッヒは強制収容所に送られたが、なぜか放免され、軍に戻った。
彼の家系のあるポメラニアといえば、プロイセン王国。プロイセン王国こそが、近代ドイツを強国へと導き、統一させた国だ。
ヒトラーはハプスブルク家支配のオーストリア出身で、そこからミュンヘン、ベルリンと権力の拡大とともに移動してきた。
あまり語られることはないが、プロイセン出身の貴族としては、かつての敵国オーストリア出身のヒトラーにいい印象を持つことはなかったのではないだろうか。
それが父エワルドの意地となったような気がしてならない。
ワルキューレ作戦は、プロイセンの誇りも薄れた時代の2013年3月8日、金曜日に終わったのだ。
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