ビリー・ジョエルが21年間アルバムを作らない理由
気づけば、ビリー・ジョエルがオリジナル・アルバムを出さなくなって21年も経つ。
自分が10代のころは、まだ彼が何かを発表していた。
オリジナルのラスト・アルバムはグラミーをとった1993年のRiver of Dreamsだという。
たしかにそんなアルバムがあったような。
久しぶりに検索した。
覚えている。覚えているが、好きじゃない。だから忘れた。
彼はこれ以後、ポップ・アルバムを出していない。
一度、「ふれあい街歩き」で、グリニッジビレッジを歩いているビリー・ジョエルに撮影班が偶然出会うという仕込みは本当かわからないようなハプニングで見かけたが、それ以外ではほとんど目にしたことがない。
(ライブで当然に日本には来ている。クラシックのアルバムは出している)
最近はマディソン・スクエア・ガーデンで月1のショウをやっているという。
きっとアメリカ中からファンがやってくるのだろう。
なぜ彼は歌を作らなくなったのか。
その秘密について彼がメディアに語ったので、アレンタウンでも聴きながら書いてみよう。
彼は語る。
「レコーディングをしていたころ。私は野心的だった」
有名になりたかったのだ。自分が何者かであることを証明したいという気持ちで満たされていた。
彼は高校生ですでにピアノマンだった。
ピアノが弾けたのは、父の影響。
父はナチスの迫害を逃れてNYに亡命したユダヤ人。その父がクラシック音楽が好きだったらしい。
ピアノもうまかった。
高校卒業後バンドに参加し音楽活動をはじめるが、精神的にはもろかった。
デビューアルバムは声を変えて発売され、人間不信によって鬱病となる。
そのころロスに移住した。
その後クラブでピアノマン生活をして、再デビュー。5枚目のアルバム『ストレンジャー』で「有名人」となった。
なぜ彼はアルバム作りをやめたのか。
それは、有名人になるにつれ、私生活をすべてさらけ出すようなセレブの生活を嫌い、恐れるようになったからだ。
そしてまた、スタジオでいい曲を作ろうと燃えていた、あの野心もなくなった。
1億5000万枚も売ったあとでは、「それ以上証明したいようなものはない」という心境だったという。
具体的に言えば、ゴシップにさらされたからだ。
1993年のアルバム以後は、再び鬱病やアルコール依存症とも闘っていた。
ちょうどそのころ、クリスティーという妻と離婚。
マスコミのゴシップの的となった。
まるで、お尻に検査用のカメラを入れられているような気分だったらしい。
誰もが批評し、分析する毎日。
そのとき、「もうたくさんだ。こっちからは十分に与えた」と、キレた。
もう、彼は新しい曲を作るつもりはない。
マスコミは決して謝らないから。
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